Home New

无敌青春 パッチギ!(2004)

无敌青春 パッチギ!(2004)

又名: 突破界限 / We Shall Overcome Someday / Pacchigi! / 奔放青春

导演: 井筒和幸

编剧: 羽原大介

主演: 盐谷瞬 泽尻英龙华 高岡蒼佑 楊原京子 加濑亮 小田切让

类型: 剧情 喜剧 动作 爱情

制片国家/地区: 日本

上映日期: 2004-10-11(釜山电影节) 2005-01-22(日本)

片长: 118分钟 IMDb: tt0449630 豆瓣评分:7.8 下载地址:迅雷下载

简介:

    1968年的京都,在革命热潮席卷全球的时代,这座古老的都市也无法偏守安宁。府立东高的松山康介(塩谷瞬 饰)和吉田纪男(小出恵介 饰)被共产狂热的布川老师(光石研 饰)命令前往朝鲜高中,与对方约定一场亲善足球赛。康介偶然被《临津江》的优美旋律所吸引,更对朝高的老大李安成(高冈苍佑 饰)的妹妹庆子(泽尻英龙华 饰)产生好感。此后他从英俊青年坂崎(小田切让 饰)那里听说了朝鲜的历史,不禁也为自己国家的未来感到担忧。安成准备毕业后归国,带领朝鲜队冲入世界杯,但是他还无法遽然从热血的生活中抽身。康介坚持学习演奏《临津江》,他渴望有朝一日能和庆子一同演奏。超越了种族和国家,少男少女们的金色青春……

演员:



影评:

  1. 这首歌是片子的一个亮点,值得回味

    临津河

    清清临津河水,潺潺地流着。
    水鸟们自由自在地在苍穹中交织。

    祖国南端的大陆,我是那么的思恋。
    清清临津河水,潺潺地流着。

    从北方的土地到南方的天空
    那飞翔的白鸟 就是自由的使者。
    有谁会希望亲爱的祖国成为两方。
    有谁会希望亲爱的祖国被分裂。

    清清临津河水,潺潺地流着。
    水鸟们自由自在地在苍穹中交织。
    祖国南端的大陆,我日夜期盼着回去,却只有幻灭的希望。
    清清临津河水,潺潺地流着。

    临津河上晴空万里边 只有那彩虹是我们分别的见证
    清澈的河水也想传达那深深的离别之情。
    温馨的故土是永远也不会遗忘的。
    清清临津河水,潺潺地流着。
  2. 一开始觉得片子有点夸张,到高潮才爆发。民族矛盾,暴力冲突,青春义气和朦胧爱情交织在一起,得细细体会。
        最感动的是播音室的大叔,文化传播者要是都有这种精神,更多自由和人文精神才能传播开。
        最悲痛的是葬礼上的质问,大多数新生代对过往的历史确实什么都不知道,哪个国家都是,伤痛的一代都会被时间抛下,所以战争是一个时代的痛,而无知是下一个痛苦的开始。
        突然想到岸本齐史的火影忍者里曾表达出希望下一代不用继承仇恨而活,但是下一代在记住历史的真实和残酷的时候,自然而然就会记住其中的屈辱,愧疚,骄傲等等,这些来自真实历史的情感才能教会人去直视问题,直视矛盾,做出更公平的选择。公平的选择去仇恨还是放下,去愧疚还是认同,虽然不一定正确,但是正确的选择一定是公平客观看待历史过后的选择。
    忘记过往,那是愚者的选择。
  3. 引自

    观点出自「社会的関係と身体的コミュニケーション—―朝鮮学校のケンカ文化から」(韓 東賢)

    登载于「思想地図」VOL1(・ 編);此处由答主转述。


    かつて1970年代の東京では東京朝鮮高校と国士舘高校の乱闘事件が頻発していたという。映画「」で高校生たちがガラの悪い格好をして喧嘩ばっかりしているのに呆れたけども、あれは校風だったようだ。

    東京朝鮮中・高級学校は、「異国の地にあっても民族の魂を持ち祖国の発展に寄与し日本の社会で活躍できる人材の育成を目的に在日朝鮮人子弟の中等教育機関として祖国解放の翌年(1946年10月5日)に創立」した当初は中級部のみだったが、48年に高級部が併設された。中、高級部ともに朝鮮学校において日本最初に設立された同校は、開校から一貫して日本最大規模の朝鮮学校でありその中心的存在である。と日本当局による朝鮮学校閉鎖政策による都立化の時期(49年~55年)を経て、北朝鮮の海外公民路線を取る在日本合会(朝鮮総連)の管轄のもとで自主化し、現在にいたっている。

    この学校と連日バトルを繰り返していたのが国士舘高校。

    国士舘高校は1917年に国士舘義塾として創立し、48年の学制改革により国士舘中学校・高等学校となった。(中略)近年、改革が進んでイメージも大きく変化したが、80年代頃まではバンカラ、武闘派を代表するような校風で有名だった。創立者で初代総長のは保守主義的、右翼的な教育方針を掲げ、50~60年代の天皇誕生日(現昭和の日)には柴田自ら馬に乗って学生を観閲したというエピソードもあるほどだ。(中略) (1973年入学した ~ 新右翼一水会代表 ~ によると)当時の国士舘高校では、入学式で「軍艦マーチ」が演奏され、入学直後には「共産革命を食い止めるため命をかけろ」などと書かれた創立者柴田徳次郎の著書が配られ、天皇誕生日には奉祝の「分列行進」があり、週一回の「訓話」という授業では関東軍作戦参謀でシベリアの収容所に強制収容された経歴を持つ校長代理が「日本のすばらしさ」を語りながら「維新の志士のように生きる」よう説く講義をし、ガクランを着て教育勅語を暗唱しろという教師が存在していたという。

    これはヤバイです。どっちもどっちというか・・・出会ったらケンカになります。朝鮮高校の男子たちはグループを作って駅や電車の中を巡回し、バンカラ系の雰囲気芬々ふりまいているやつを見たら見つけ次第にケンカを吹っ掛けたという。

    彼らはこのように毎日列車内を「流し」て、「敵」を見つけると自らしかけて片っ端から制圧していった。一方で、誰かがやられたとか生意気なヤツがいるという情報が入ったり、「天敵」である暴走族が集会を開くという知らせがあれば「出張」することもあった。「国士舘は象徴的な相手で、他の学校は最初から向かってこない。まともに相手になるのは暴走族と国士舘だけ」(Eさん)だったらしい。

    一方、彼らのケンカは、周囲にはどのように受け止められていたのか。 (先生や大人は)やるなら負けるなとか、そんな感じとかね。あとは捕まらないいようにやれとかね。・・・・・(停学などは)あまり聞かれなかったね。・・・・ケンカではね、怒られるけど、そりゃ学校側もメンツがあるからね、怒られるけど、でもそんなには怒られないかな。(Aさん)

    誰に聞いてもだいたいこのような感じで、ケンカで警察に捕まっても停学や退学などの処分を受けることはほとんどなかったという。ではそれは学校の方針だったのか。「学校の方針としてというのは別になかったが、そんな風に厳格にしていたら、どれだけ多くの生徒が退学になって、いなくなっていたか」と語る元生活指導担当教師のFさんは当時、「生徒たちの学ぶ権利を守る生活指導部」というスローガンを掲げていたという。

    お、おもしろい。「パッチギ!」のあの一種ヤクザ映画みたいな天真爛漫な明るいケンカはそれだったのか。 そのような朝鮮高校の「ケンカ文化」が日本の不良高校生たちの畏怖や尊敬の対象となり、また一種のカッコイイスタイルとして隠語に取り入れられたりしたらしい。 そして、それだけ毎日毎日集団で乱闘して、警察にもしょっ引かれてたのに、死人が一人も出ていないっていうのはすばらしいことだ。

    集まってケンカするのはいけないことだったかもしれないけど、団結することを知り、団結してケンカするのが、自分たちの権利を守ることだと思ってたし、生活を守ることだと思ってたから。(Fさん)

    彼らの論理の「正しさ」はケンカでの勝利はもちろん、周囲の好意的な対応を通じて再認識され、警察沙汰になった際の差別的対応などを通じてさらに補強され、「伝統」となっていく。このように、彼らにとって「正しい伝統」であったからこそ、恐怖を感じながらも使命感を持ち、決死の覚悟、捨て身の「ハッタリ」で、強い敵を相手に精神的優位に立つ先手必勝の戦法で挑んでいけたのだ。

    彼らにとって、ケンカは「集団的伝統」であり、一種の「身体的コミュニケーション」であり、「マジョリティー/マイノリティー間の権力関係を(一時的にでも)無化するフィルター装置としての機能」であり、「マイノリティーとしてのアイデンティフィケーションの困難を回避するための一つの装置」となっていたのではないかと著者は推測している。めちゃめちゃおもしろい。死人が出ないのならどんどんやるべきじゃないのか?

    しかし、実際にはそのような「ケンカ文化」は80年代後半から90年代には限りなく下火になり、その代わりに「チマ・チョゴリ切り裂き事件」のような個人、弱者をターゲットにした陰湿な襲撃事件が頻発するようになった。で、著者は言う。

    そこに身体の対等性や、アイデンティフィケーションの困難を回避するフィルターとしてのコミュニケーションは、おそらく、存在しえない。 こうした「コミュニケーション」の様態の変化は、当然のように日本社会の変化の問題でもあるが、同時に、60~70年代の高度成長80~90年代のバブル経済を経て、「変化」してきた在日の側の問題でもあるだろう。では内と外の境界線は変わったのか、変わらないのか。その裂け目は埋まったのか、深まったのか。

    うーん、やっぱり、こういうネアカな乱闘が可視的に存在するっていうのはいいことじゃないのかなあ。一見穏やかで平和に見えても、親が子を殺したり、陰湿ないじめが全国津々浦々で頻発して死人がボロボロ出るような今の社会はとても健全とはいえない。朝鮮高校の生徒も国士舘の生徒も、イデオロギー対立が背後にあったわけだけど、それが韓国のように流血の大惨事に発展するのじゃなくて小競り合いをやってるうちにガス抜きができて、またそれを容認するような雰囲気が当時の日本社会にあったということだろうと思う。韓国の反共主義者たちは当時の日本を批判していたらしいけど、私はこういう緩衝地帯(日本)があったことはよかったんじゃないかと思った。もちろん、朝鮮総連の活動と韓国の民主化運動とはいっしょくたにしてはいけないけども。そして、ちょっと誤解されるかもしれないけど、人間多少のストレスがあった方が長生きするらしいから、こんなふうに「相容れない思想」の他民族が隣に住んでいて、時々はらわたが煮えくりかえるような思いをして、健全なバトルをするっていうのはかえって日本社会にとってプラスの方向に働くのではないかなあと思った。


    チョン・チョン子・チョン公:日本人对朝鲜人的蔑称

    チョッパリ:(韩语)意为蹄子开裂的家伙,是朝鲜人・韩国人对日本人的蔑称。

  4. zs这批日本电影的字幕翻译基本上都是鸡同鸭讲,神仙才能看懂。所幸音乐语言无国界,最后小青年悲歌一曲,算是抵消了倒霉字幕带来的缺憾。zs如果存心不想搞好翻译问题,那么不妨多出点跟音乐有关的电影碟,影迷们才不会怒气冲天。